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日本社会の「競争と順位付け」

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論説・コラム

 長くオランダで暮らしてきたフリーランスライターの島崎由美子さん(薬剤師・日本障がい者スポーツ協会公認スポーツ指導員)から、「競争・順位付けの賛否両論」と題する論考が届いた。オランダとの比較から、日本について「不全感や高度に競争的な教育社会に存在する子どもたちは、不全感や満たされない心、自己否定感を増幅させているように見える」などとつづっている。


写真=15歳のアイノアと談笑中の筆者(2020年1月、オランダ・デンハーグにて)

 園や学校の運動会では、リレーや徒競走などで児童・生徒の順位付けを行っていることが多いと思います。順位付けをすると、競争心が育まれるというプラス思考や、やる気を失うというマイナス思考が生まれます。全員で走ってみんなでゴールテープを切るような光景を目にしたことがあるでしょうか。個人競技を減らし、玉入れや綱引き、ダンスなどのチーム全体の競技を増やしても、やはり優劣が付けられています。これを「悪しき平等主義」と捉えて、競争の順位付けの賛否について述べたいと思います。
 順位付けのプラス面として、秀でたところが個性なのだから賞賛されて当たり前だと考えられたり、挫折体験も児童・生徒の成長に必要であるとか、競争社会において経験しておくべきだと考える傾向がみられます。
 一方、順位付けのマイナス面として、失敗体験ばかりしたり、楽しさがなくなったり、児童・生徒の間に差別意識が生まれ、劣等感を生み出しています。
 人はみんな違いを持って生まれています。その後の成長には、環境やその後の教育が大きく影響します。児童・生徒は、大人が順位を付けなくても、自分で他者よりも出来るという自己肯定や、出来ないという自己否定を日々の生活の中でヒシヒシと感じながら生きています。
 例えば、園や学校の壁にクラス全員の絵を展示したとします。順位が付いていなくても、自分は他者より絵が下手だという劣等感を生徒・児童自身が感じ、教師や親も比べて優劣の感情を持つことは、人として自然なことだと思います。
 園児は、小学校に入学すると成績を付けられ評価されます。競争社会に出れば順位付けという評価はさらに顕著です。それでは、成長過程で過度に挫折感を味わうことは強固な精神を育み、その後の人生の障壁を受容できる人格形成に繋がるのでしょうか。
 徒競走は遅いけれども絵が上手と褒められるケースもあるでしょう。成績が良くなくても運動神経だけは素晴らしいと褒める大人もいます。このような、児童・生徒への励ましの言葉は好ましいでしょうか。こんな時、親や教師はどのような言葉をかけているのでしょう。
 「どうして一番になれないのか」、「今度は頑張って一番になろう」、「なぜもっと頑張れないの」、「それが悔しくないの」、「そんなだから恥ずかしい」など、もし大人がこのような言葉を発したら、児童・生徒は一番でないと意味がないとか、負けることは良くないとか、親のために頑張ろうとか、楽しくないから辞めてしまおうなどの価値観を身に付けてしまいます。
 人は、生まれながらに同じではありません。しかし、背の高い人と低い人、裕福な家庭とそうでない家庭などの遺伝的資質や環境要因の多様性に対して、偏見や差別を持って生まれてはいないのです。
 競争や順位付けは、過度の緊張状態を生み出し、大きなプレッシャーになったり、差別や優劣の意識が生まれたりします。順位を付けられることにより、競争社会で生き抜くために必要な心の強さが育まれると考えたり、親が過度に期待したり、誇らしく思う気持ちは愛情であると考えたりすることは、個の意思の自由と平等を尊重して、疾病や障害と共生する社会の実現には、逆行しているとしか感じられません。
 順位付けされないまま育つことが挫折を知らない弱い精神になってしまうなどと考えることは、現代の実社会に生きる大人たちの身勝手な妄想かもしれません。
 育成や教育には一定のアセスメントが必要です。しかし、人と人を横軸で比較せず、目標値を設定して到達度を評価するスケール法があります。ある学習の到達目標度を100%とした場合、自身の到達度が84%ならば残る16%を充足する努力が求められていることになります。横にいる他者と比較することはないのです。
 自己肯定感を醸成し、自分らしい目標の持ち方を学ぶことは、競争社会で切磋琢磨して生きることに逆行するものではありません。

 ここで、私が住むオランダの親友を紹介しましょう。中等教育機関(学校)の3年生、アイノア(15歳)は、「私の学校はリモート授業。宿題しろとか運動しろとかウザイってば。二度と戻らない青春だからとてもストレスフルよ」としかめ顔の様子でした。
 娘と宿題が済んだかどうかの確認しかしようとしない再婚パパとの会話は、子どもにとってかなりストレスのようです。しかし、私が彼女の成績票のことを聞くと、彼女は「何のために学ぶのかは、私にとってもすごく大事だよ」と答えていました。
 オランダでは、自分に合った教育を選ぶ権利を含めて学校以外にも多様な場があることを広く子どもたちに周知しています。
 ニッポンの成育環境を私自身が持つ「外視鏡」で覗くと、高度に競争的な教育社会に存在する子どもたちは、不全感や満たされない心、自己否定感を増幅させているように見えます。
 私の経験において、ニッポンと海外では「個」に対する考え方や扱い方が大きく異なっています。特にオランダでは、子どもたちが幼い頃から自分で意思を決定できるよう徹底した個人主義社会の中で育てられています。
 子どもは大人と同様、「自分が決めたのだから」と相手を尊重し、互いが認め合った後でも議論します。属性に関係なく自分の意見を持ち、常に自己をアップデートできる環境に生きています。
 オランダの学校では、思考力・発信力・傾聴力を育むアカデミックディベートが積極的に実践されています。他者と批判的な議論を白熱させても、軽蔑され、人格まで否定されることはありません。日本の学校ではどうでしょうか。

 近年、集団主義ニッポンの社会において少しずつ、個の理解と共有が進んでいるように感じられますが、自己形成期に立つ児童・生徒が自他を批判せず、個の存在と自己肯定感の尊さを深く学び、多様性への寛容性を育んでいけるよう、成育・教育の環境を再構築する重要性を感じています。
 さらに、束縛・拘束のない公平な相互関係を共有できるような自由、全ての人間が法的・政治的・経済的・社会的に、公平かつ同等に扱われる平等の精神を子どもたちの心に育まなければと思います。
 そのような環境に身を置くことで子どもたちの心は、人種・肌色・言語・文化・モラル、属性等の多様性をリスペクトし、障がいや疾病の特性、他者の心の複雑さと尊さに寄り沿うことができるはずです。
 競争・順位付けは必要でしょうか。ニッポンが目指す共生社会づくりにスポットライトを当て、一人一人考えてみる必要がありそうです。

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