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一刀両断 実践者の視点から【第275回】

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論説・コラム

「また会える」保証はない

 《広域連続強盗の実行犯とルフィは極刑に問えるのか…“指示内容の壁”を若狭勝弁護士が指摘》(日刊ゲンダイDIGITAL)という見出しの記事には法制度の甘さが如実に現れている。人を殺しても家族を不幸のどん底に陥れても犯人の命は代償にされないという。
 遺族は納得しようもないがこれが法制度であり、法治国家の加害者有利の実態なのである。ある意味、やられ損という事になる。
 一時期、「必殺仕置人」という時代劇がヒットした。世の中の理不尽をテーマに、仕置人にお金を払って恨みを晴らしてもらうという分かりやすいストーリーである。
 見た後も後味がよいが、仕置きをされた悪人にも家族や親や子どもが居るとなると複雑な心境になってしまう。
 私は、授業で、加害者にも家族がいることを伝え、被害者の家族の視点からしたら極刑でも、加害者の家族からしたらどう思うと問うことがよくあった。
 不幸の連鎖は至る所に繋がっている。一連の容疑者も義務教育を受けて担任や同級生もいるのだから、こうなる前に予防となる関わりや学びが出来なかったのだろうかと考えてしまう。
 道義心や道徳心が形骸化した授業によって行われ続けているから悲惨な、そして残忍な事件が起き続けているのではないだろうか。現場の第一線には来ない道徳学者たちに詰め寄りたい。
 その証拠にある学者を信奉する教師が「大久保先生の話は分かりますが、子どもは一回の授業では変わりませんからね」と言った。ここに全ての本質が現れている。
 人はまた会えるなどの保証はない。これが最後と念じて、誠実に、只今臨終と思って人と対面するからこそ、思いも願いも伝わる。そう捉えて教鞭を取って来たからこそ、この発言には腹立ちよりもこうした教師を育ててしまった人的環境に危機よりも悪意を感じてしまうのである。
 これまでの現実の諸課題を解決出来ていない学びにどれほどの価値があるのだろうか。犯人はこうした教師により容認されていくのではないだろうか。
(おおくぼ・としき 千葉県内で公立小学校の教諭、教頭、校長を経て定年退職。再任用で新任校長育成担当。元千葉県教委任用室長、元主席指導主事)

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