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コロナ時代に考えたい学校問題【第103回】

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生徒指導と思いやり

 「思いやり」が大切という方がいる。誰も異論はないだろう。しかし、これは非認知能力であり、測りにくい。この度合いを測ろうとするならどのような場面が想定されるだろうか。

 ある高校の生徒を例に挙げてみたい。1回目の指導は次の通りであった。
 本人が書道の道具を何度話しても持ってこなかった。そこで本人が隣の生徒に書の作品を書いてもらい名前だけ書いて提出した。それが見つかり特別指導となり別室5日間登校となった。
 2回目は、面白がって友達のロッカーを凹ませていた。それを動画撮影した生徒がいた。共に進級出来ないから、通信高校へ行ってはどうかと生徒指導担当が親と本人に話した。
 親は「この子は理解力が弱いので、もう少し分かるよう話してもらえませんか?」と、不信感をあらわにした。

 こうした場合の「思いやり」とは何だろうか。困難校は綺麗事ではすまないのである。
 今の大学生は、教員養成段階で具体的な場面を想定した生徒指導の方法を教えてもらった事はないだろう。教えられる教師がいない、あるいは、教師自身に経験がないからである。
 ややもすると、規律違反をした生徒がいた場合、処罰するのは教師であり、検事と裁判官を兼務することになる。弁護士は存在しないのだから、結論は見えている。
 仮にそれが判断ミスであったらどうなるのだろうか。弁護士役と検事役と裁判官役を意識して生徒指導を行った場合は、どんな結果になるだろうか。
 これからは訴訟社会になると指摘されている。これまでのような生徒指導のやり方では通用しない事になる。その中で「思いやり」がどこまで通用するのか、また、無用とされるのか。法令遵守と人情采配は融合できるのだろうか。

 時代劇に大岡越前や鬼平が登場する。確かに悪が分かっていても、未来を託して敢えて目こぼしをするシーンがある。この「思いをやる」采配には何故かしら心が豊かになる。
 私が校長の頃の判断の手本はまさに鬼平であった。よって困難校を希望して校長職を楽しませて頂いた。思いやりとは、単なる優しい事ではないが、人情は失いたくないものだ。仕方なく処分した案件を一生忘れてはならない。
(おおくぼ・としき 千葉県内で公立小学校の教諭、教頭、校長を経て定年退職。再任用で新任校長育成担当。元千葉県教委任用室長、元主席指導主事)

コロナ時代に考えたい学校問題