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コロナ時代に考えたい学校問題【第131回】

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結束力の崩壊がもたらしたもの

 ある講座に参加した。著名な先生の講話が刺激的であったし、納得してしまった。
 敗戦により占領軍が一番恐れたのが日本人の「結束力」であったという。度重なる震災時の行動からも分かる高い秩序が基底にある。それを抵抗なく潰すには、教育をもって「結束力」が崩壊するように刷り込むように策略し、都合のよい民主主義を用いて、自主的、主体的、個性、多様性と言う耳ざわりのよい言葉で「結束力」の崩壊を図ったと指摘された。
 確かに、これらの主張が事実だとすると「みんな違って、みんないい」等が妙にもてはやされる事にも違和感が湧いてくる。教育には基礎知識や基礎技術を理解するまでの鍛練が必要となる。道具の使い方を知らないで、好き勝手にやらせたら達成感どころかバラバラになってしまう。最初から何も教えなければ、学力はつかないし応用は出来ないと考えるのが道理ではないだろうか。

 採用2年目の頃に体育主任となった。「運動会の徒競走で、ゴール前でみんな手をつないでゴールするようにして欲しい。日の丸君が代は戦争へとつながる。出来れば運動会はすべて民舞にして欲しい」と、配偶者が市保体課課長を務めている教員が、真顔で発言したときには言葉が出なかった。君が代斉唱の是非で職員会議は深夜まで続き、翌朝は授業もせずに何時間も打ち合わせをしていた。
 このような偏った民主主義、すなわち「白い共産主義」が現在の教育の中にも浸透しているのではないかと問われた。
 確かに、自己肯定感が強く個性や多様性が尊重された場合、一斉指導は敬遠され、秩序の徹底や叱責も憚られることになる。
 真理、真実は変わらないものであり、正しく畏れる事が出来なくなり、好き勝手なことばかり発信するようになる。それにより聴く力が弱まり、感謝や親孝行の意識が薄れ、家族内での殺人が多くなる。
 コロナ対応になり、長年培った自主的、主体的な学びは生きているのだろうか。その成果がほとんど身に付いていないと言ってもよい現実ではないだろうか。
 こうした、サブリミナルのように刷り込まれた「結束力」の破壊を促す手法により、学力は優位でも自尊感情は低位へとなり、青年の自殺が多い現実がある。ここに注目して早急な改善を試みようとする権力者もメディアも皆無に等しい事自体が、仕組まれているようにも感じられるのは、思い込みだろうか。
 後継となるべき青年が自ら死へと向かう国になっている日本は、ある国の当時の思惑どうりになっているのではないだろうかと恐ろしくなった。錯覚ならよいのだか。
(おおくぼ・としき 千葉県内で公立小学校の教諭、教頭、校長を経て定年退職。再任用で新任校長育成担当。元千葉県教委任用室長、元主席指導主事)

コロナ時代に考えたい学校問題