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コロナ時代に考えたい学校問題【第7回】

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論文の限界とエッセー

 「論文」と「エッセー」は、その体裁からして明らかに違う。論文を書き慣れている人の話は、深みはあるが専門用語が多く、面白いとは思えず理屈っぽい印象が強い。また、論文には引用の後ろ盾があるから、鼻高々に強気で主張する傾向がある。いわゆる査読をされ、多くの目を経ている自信と過信があるからだろう。学術界では、論文の本数が、専門性や登用の基準になっているのは周知の事である。

 敢えて、それが信頼に足るものと本当に言えるのかと問いたい。論文にも様々な種類があるから、この指摘は全てには当てはまらないが、その価値と有益性に疑問があるのだ。論文とは、論じていることが正しくなくとも成り立つものである。
 縄文時代は、狩猟生活だから定住してはいなかったと多くの研究論文に書かれたが、三内丸山遺跡の発掘で見事に覆された。
 問題は、何処で、誰の元で書かれた論文かによってもステータスが異なる為に、真理よりもキャリアへと流れる事である。
 感性や感情を主とするエッセーの方が、私は人として馴染むように思えてならない。ある時は叙情詩のように人々を興奮させ、引き込ませる事ができる。釈迦の六万法蔵といわれる膨大な経典も実は「論文」ではなく「詩」である。その殆どは、弟子たちが口伝伝承して後に文字に書き起こしたものである。釈迦は言った。私の像や墓を大切にするよりは、この「経」こそが宝であると。
 だからと言って論文を否定はしないが、やがてAIなら、さらに高度なものが作れるようになる気がする。エッセーや詩は、人間の感情や感性からしか放出されない生命の迸りだから根幹であり、枝葉末節が論文類のように思えてならない。過去の名声で今を生きるのでなく、今何が出来るかで評価すべきではないだろうか。願わくば、自らの行動が伴ったエッセーであって欲しい。
(おおくぼ・としき 千葉県内で公立小学校の教諭、教頭、校長を経て定年退職。再任用で新任校長育成担当。元千葉県教委任用室長、元主席指導主事)

コロナ時代に考えたい学校問題